雑記 トゥ ザ フューチャー

odmishienの雑記です。あくまでも”トゥザフューチャー”を意識しています。

あの頃TSUTAYAで借りたアルバムのmp3ファイルはUSBメモリの中に眠る

CDを買う習慣がほぼ無い。CDは高いし、好きなアーティストがたくさんいるので全部買っていたら即破産する。アーティストさんごめんなさい。

だから中学生の頃から近所のTSUTAYAに駆け込んでは、旧作アルバム5枚を1000円(4枚で1000円の店舗もあったと思う)という中学生の財布には決して安くない値段で借りていたのを覚えている。1000円出すなら良い音楽を聴きたいと血眼(血耳?)で試聴機にかじり付いた。きっとこの1000円という絶妙な値段設定があったからこそ、私は音楽を聴くときになるべく五感を最大化しようとしていたし、今現在に至っても音楽に執着しているのだと思う。

たまに良いアルバムがあれば、友達に又貸ししたりしていた。又貸しすると延滞料金が怖かったりしたので、PCに入っているmp3データをUSBメモリに入れて渡したりもしていた。(これは法的にグレーだったのかな。よく分からない。時効です。)

これは私にとって、自分の音楽リテラシーというかDJ力が試される場面でもあった。mihimaruGT「Hip-Pop ピーポー かけてよミラクルNumber!!」言うてますし。mihimaruGTって5万年ぶりに書いたよ。何はともあれ「あいつはイケてる音楽を聴いているな」「あいつとは音楽でいい酒が飲めるな」みたいに思われたくて、そういう自己表現の場でもあったのだ。USBメモリのフォルダの名前を「◯◯へオススメ」みたいにしたこともあったし、自分の好きな曲だけで構成されたオリジナルアルバムフォルダもあった。自分しか聴いていない音楽が周りのみんなに聴かれて仲間内で流行ったりすると、一流の音楽ライターになった気分で、ひん曲がった承認欲求がメチャメチャに満たされたりもした。

そんな習慣が受験期くらいまで続き、大学受験を機にはたと止んだ。音楽は聴いていたけど、TSUTAYAから足は遠のいた。

大学に入学すると、自然とサブスクリプションサービスで音楽を聴き始めた。これはクレジットカードを自分で持ち始めたことだったり、AppleMusicやSpotifyなどが本格的に邦楽にも対応し始めてかなりの数の音楽が聴けるようになったことなど、色々な要素が関係していると思う。余りにも簡単に直感的に、そしてなによりも受動的に音楽を聴くという体験は新鮮で、月額500円を少しも惜しまずに支払うようになった。別に1000円でも支払っていると思う。それくらいに音楽のサブスクリプションサービスはTSUTAYA少年の心を揺さぶるものだった。

そして先日、ついに友人のAppleMusicのアカウントをフォローするというイベントがあった。私の平成が終わるなと心から思った。

もうUSBメモリなんて要らない。気になるあの子が聴いてる音楽は勇気を出して話しかけなくたって、サブスクのアカウントさえフォローすれば分かる。私の中のmihimaruGTはインターネットの海にダイブする。隠れて聴いていた恥ずかしいラブソングも、東京に来たからという田舎者丸出しな理由で聴いていた東京ソングも、すべてソーシャルネットワークの網を通り抜けて他人に伝わっていく。あの頃は良かったとかそういうレベルの話ではなくて、ただ時代が変わっていくことを肌で実感した感覚を、ここに書き残しておきたかった。

思えばUSBメモリなんて、音楽の受け渡しにしか使っていなかった。あの頃使っていた8GBのbuffaloのUSB(青)。どこに行ったのかはもう分からなくなってしまった。最後に作ったプレイリストはどんなだったろう。知る由もないのだが、気になってしまう。

そこまで成長に必死ではない若者から見た成長に必死な若者たち

読んだ。二つのエントリをまとめて雑に要約すると一回り上の世代の方から見れば最近の若者は成長することに必死すぎるしそれには理由があるんだろうね、とのことです。

私もそう思う。twitterなんかでも、右を見ればスタートアップで圧倒的成長💪😤💪を遂げている大学生がいるし、左を見ればbioでこれまでの華々しい経歴とこれまでに行った国の国旗、これからの大きな夢を所狭しとビッシリ書き上げている大学生も見る。こういう人たちのことが件のエントリで言及されているのかどうかは分からないが、個人的にはこういう「意識高い系」のステレオタイプ垢のことを想像した。もちろん、よく見るというだけなので本当にこういう人が多いのかどうかは正確には分からないが、肌感覚としてそういう意識高い系に感化されているような発信者にアクセスしやすくなったと思う。

私はtwitterでもはてなブログでも、日々を綴ったりしょうもないことしか発信していないし勉強もコソコソ隠れてやるタイプなので、ここでいう「成長に必死な若者」ではないのかなと思っている。そんな「そこまで成長に必死ではない若者」である私から見て、同年代の「成長に必死な若者」がどう見えているのかを書いておきたいなと思い筆を取りました。そういうポエムです。

率直に言うと彼らを見ると「勝ったような、でも負けたような気分」になる。

何かを成そうとする時にそれをあからさまに人に見せつけて、認められようとして、のし上がっていこうとする姿勢は個人的には苦手だ。どちらかというと隠れて、別にしんどくないぜ?みたいな顔をしているけど水面下ではものすごいジタバタともがいていて…みたいな方がカッコ良くないですか?有言実行よりも不言実行の方がイケてるっていうか…もっと努力というものに淡白で飄々とそつなくこなしている方の見せる背中、その背中から感じる力強い何かを素敵だと思う。個人的に、だけど。

この戸田真琴さんが書いたnoteを読んだ時も強く共感した。個性的であろうとすることが没個性的だとフミコフミオさんも述べていたが、その通りだと私も思っていて滑稽だとすら感じる。

では、こんな「滑稽だなあいつらww」と彼らを半ば嘲っている私は何をしているだろうか?何を実現しようとして、そのためにどんなアプローチをして、どんな個性を発揮して、どう社会に貢献していくのだろうか?悔しい哉。私自身は何かを実現した人間でもないし、実はそのスタートラインにすら立っていない。ここが先に述べた負けている気分になる部分である。

いわゆるインフルエンサーとして活躍し、同世代はもちろん世代を超えて多くの人に影響を与えている若者だって存在する。その形態はYouTuber、ブロガー、芸能人など様々だが、彼らに共通することは「成長に必死であり、かつその成長が実現された」という点だろう。彼や彼女らが駆け出しの頃、多くの私みたいな人間に嘲られたことだろう。「何をアツくなっちゃってるの?」「芸能人気取りですか?」「意識高いね(笑)」エトセトラエトセトラ。しかし彼らはこれに屈さなかった。成長に必死であり続け、無事に立派な成長を遂げた。それが皆の目に留まり、支持を得た。こうなったら私たち「成長に必死ではない」者たちは、つまらなそうな顔をしてしぶしぶ解散するしかない。そう、大敗だ。社会に必要とされるのは私ではなく彼らのような姿勢を持ち続けてそれをやり通した者たちなのだ。

もちろん多様性の認められた現代社会では人様に迷惑をかけなければどんな生き方だってしていいし、誰もがインフルエンサーになる必要などはない。その生き方が正解かどうかは自分で決めればいい。それでも心のどこかで、成長に必死な者たちを高みから眺めてはぶつくさ言っている人間は強い劣等感を抱くことがあり、その劣等感をまた嘲笑でもみ消すという何とも悲惨なスパイラルに陥ってしまいがちなのだ。そんなこんなで今日も部屋で雪印の1000mlの紙パックコーヒーを飲みながら、こんな身にもならない2000文字を書き上げてしまう。

12粒を1つの板にする魔法をかけてあげる

この記事は #独身男性手作りチョコバトル に参加したものです。ひどいです。5分で出来ました。

まずコンビニでダースを買ってきます。ミルクが好きなのでミルクにしました。ダースだけだと店員さんに申し訳なかったので「印で大丈夫です」と食い気味に申告しました。

ボウルに開けるとこんな感じです。早速溶かしていきましょう。

2秒で溶けました。

これだけだと、熱を加えて冷ましただけになり、手作りチョコではないと言われる気がするので、ラムエッセンスを垂らします。

型に戻します。型が無いので、普通にさっきまで12粒のダースが入っていた容器に戻します。

これだけだと熱を加えて冷ましてラムエッセンスを入れただけになり、手作りチョコではないと言われる気がするので、スライスアーモンドを散らします。

冷蔵庫に5分入れて冷まします。

この世界には愛が溢れていますね。みなさんにもビッグラブがあらんことを!

胡散臭い言い回しメモ

書店に行けばすぐに見つかる胡散臭いハウツー本や自己啓発本の言い回しが個人的に好き(笑)なのでコメントと共にメモしておきます。

サルでもわかる○○」

サルに失礼だろサルすごいぞパンくんとか服着てるしな

「マンガでわかる○○」

めっちゃマンガの内容読んじゃうしキャラクターの名前とか気になるんだよね、やめてほしい
Excelの本で「セル子」とか出てると相当萎える

「面白いほどよくわかる○○」

人の成長を「面白」にするなよ

「毎日10分やるだけでできる○○」

毎日10分確保すんのマジで難しいからな?10分あったら寝るだろ普通

「世界一ラクにできる○○」

絶対言い過ぎたろ?こちとら嘘ついたら訴訟も辞さないぞ

「○○するためのたったひとつの方法」

だから言い過ぎたんだろ?頑張って5個くらいやろ流石に。ほら、今なら許してやるから認めろよ

「絶対に挫折しない○○」

もう許さん!!

「○○式メソッド」

誰だよお前

「○○するための100の方法」

さっき「たったひとつの方法」見つけてただろお前、なんとかしてくれよ100は多いよ

「超○○術」

なに?「超」って書いて「スーパー」とでも読ますのか?ゴルァ

「○○は要らない」

なんでもかんでも要らないって言うなよ、そういうのってたまに要るだろ、あの、あれ、缶切りとか

「なぜ○○は○○なのか?」

早く教えろ

君たちはどう生きるか?」

帰って飯食って寝るよ

「あなたの1日は27時間になる」

嘘は良くないだろ


P.S. 自己啓発本の中で1番共感したタイトル↓

人生は理不尽

人生は理不尽

私には “分かりすぎる歌詞” がある

タイトルの通り。私にはあまりにも“分かりすぎる歌詞”というものがある。驚くほどに共感してしまうし、それが言いたかった!ということを平気で言語化してくるその歌詞にひれ伏す。今回はそんな私的に分かりすぎている一節をひたすらに貼り付けていこうと思う。

笑ってサヨナラ/フジファブリック


どうにもならないことが多すぎる
どうでもいいことなら いいのに

フジファブリックは私の青春そのもので、大学に入ってからは聴くと胸が苦しくて、逆に最近まであまり聴けなかった。彼らの音楽は確実に今の私の血となり肉となっている。そんな彼らの曲の中でも、圧倒的に“分かってしまう”一節だ。世の中生きていたら、本当にどうにもならないことが多くてドン引きすることがある。ほんとうに心の底から、どうでもいいことならいいのに、と思う。

春風/くるり


揺るがない幸せが
ただ 欲しいのです

そうなんだよね…揺るがない幸せが欲しいだけなのに、どうして簡単には叶わないんだろうね…。この曲は日曜日の昼下がりによく聴きます。窓から差す陽の光がゆらゆら揺れているのを眺めたりしながら聴くと、なお良しです。

はっぴいえんどを聴かせておくれよ(仮) /カネコアヤノ


ああ、こんなものさっさと終らせて
公園とかスーパーとかどっか外出て空気吸おうぜ
ああ、はやくハッピーエンドで終らせてくれよ

家が好きだ。家は目に見える居場所だから、ひとまず私を落ち着かせてくれる。それでも1日中家にいたら、どうしてもどこかに出かけたくなってしまう。人に会いたい、というよりも外の空気を吸いたい、という欲望だと思う。私はいつだってこんなものさっさと終わらせて、公園とスーパーで最高になって、ハッピーエンドをキメたいのだ。

コントラスト/クラムボン


でも平気 平気だよ 君にキスをすれば
きっと平気 平気だよ 君を抱きしめていれば
僕は僕を とりもどす
僕は僕に もどってゆく
・・・・・もどってゆける
すばらしいことだ あぁなんて すばらしいことだ

人生って言ってしまえばそんなにやりたいことも楽しいことも素敵なこともたくさんあるわけではない。絶望したり、どうしようもなくなったり、割とそんな風に過ぎていく。そんな日常の中で「君」と会って話してキスをして抱きしめていたら、まあいっか、と思えてくることがたくさんある気がする。すばらしいことだ!これぞラブソングなのでは?

デート/chelmico


恥ずかしくないよ ほら イルカ アシカ ペンギン 可愛い 楽しい

🐧🐬🐬🐧🐧🐬🐟🐠🐡🐟🐟🐧!!!

ん〜〜!!カワイイ!!!

なだらかな夜 feat. Gotch/Ovall


チューしたいな
チューだけはしたい
チューしたいな
チューだけはしたいな

それまで普通に歌ってたのに、急にチューしたくなる曲。マジでしたいんだな、こいつ。チュー"だけは"したいんだもんな。他は何もせずとも、という覚悟が見えるよな。

恋は永遠/銀杏BOYZ


Strawberry fields の夢
Seventeen ice うんめー

ストロベリーフィールズ🍓
セブンティーンアイス🍦
うんめー😋

普通に良い曲で笑えます。

Silly Girl/雀斑


Let's go mountain, swimming in the water at spring time & summer time

私は英詞をあまり理解できません。しかしこれだけは分かる。絶対に良いことを言っているな、と。

山へ行こう!ほんで、春と夏は泳ごうや。

……☺️

くだらないの中に/星野源


流行に呑まれ人は進む 周りに呑まれ街はゆく
僕は時代のものじゃなくて
あなたのものになりたいんだ

星野源のことが得意ではない。得意ではない、という言い方をしているのには事情がある。彼の才能を前にすると、何も言えなくなるのだ。彼の語り口は全く嫌味がなく、彼の作る音楽はなんとも耳に心地よく、演技も、声も、ルックスも、すべてが文句なしなのだ。せめて何か一つ欠けていてくれたらそこをボコボコに叩いたのに、彼はそうさせてくれない。多分、畏れとかそう言った類のようなものだ。そんな彼の作った曲の中でもダントツで好きな曲で、こんな歌詞を書けてしまうのか、とまたひれ伏してしまう。こんな言葉を紡ぐところを見せつけられた私には、もうなんの言葉も残っていない。超リスペクトしてるみたいになっちゃった。

取り留めもない記事になってしまった。
当方、これからも素敵な詩や詞に触れていきたいと思うております故、どうぞ皆さんの素敵な詩や詞も残していってはいかがでしょうか…。

元恋人は幸せな家庭の中で微笑む私の夢を見るか


そうやってこのまま独身でいる事に対して自分なりに折り合いをつけて日々過ごしているのだけど、人ごみの中で同年代の夫婦やカップルとすれ違うたびに「どうして自分には大多数の人たちが当たり前に出来ている事が出来ないんだろう」というコンプレックスのようなものをうっすらと感じてしまうのだけは、どうしても止められないのだ。

このエントリを読んで、この先の私の人生も「当たり前」のことができなかったらどうしようと不安になった。でもちょっと考えてみてほしい。恋愛や結婚って、絶対に「当たり前」にできる程簡単なことではない。なぜって、恋だって結婚だってそれは突然に終わるものだ。つい先月、いや、昨日まで愛を囁き合っていた2人にとっても、それは簡単に終わらせることができる。

そもそも人間の感情などという、一過性のものだけを頼りにしてもたれ合うという関係のどこが健全なのだろう。身長は180cm以上ないとダメ。年収は1000万円以上でお願いします。そんな具体的な条件を提示してくれた方がまだ安心できる。私が身長180cm以上あって年収が1000万円を下回らない限り、その人は私の側にいてくれるのだ。なんて単純なことなんだろう。(分かっている。すまない、今回ばかりは身長170もなくて貧乏な学生の私にも大口を叩かせて欲しい。)

それでも、世の中の恋愛はこうした一過性の感情を強く重視する。重視するくせに、それが一過性であると露見した瞬間、皆が嬉々として「不誠実だ!」「浮気だ!」「不倫だ!」「川谷○音だ!」と声を上げて非難する。不思議だ。あれだけ言っておいたし、知っているだろう?感情とは移ろう、一過性のものだって。

ここまで何やらクズのようなことを書いてきたが、私だってもちろん恋愛をするにあたって相手の情熱や好意を得たいと思っているし、それに応えるためには私も誠実であるべきだと思う。それが一過性であろうが、その時は2人だけの空間で、2人にしか分からない言葉で、2人の間にある心地よい何かを感じ合いたいと願う。

では逆はどうだろう。つまり2人の間にある、しこりのような何か。しっくりきていない何かが大きくなり始めた時、それをずっと2人で共有するのはたいへんな苦痛だ。相手の言葉が分からない。相手の気持ちが分からない。そこに2人が一緒にいるべき理にかなった理由が存在したとて、欲しくないものは欲しくないのだ。

これらはすべてお互いの感情の中で完結する。どれだけ心地よい時間を過ごした2人でも、感情までお揃い、というわけにはいかない。お互いが違う思いで、この突然の別れに直面する。そうするとどうなるか。どちらかが加害者になり、どちらかが被害者になる。すなわち、感情の過ぎ去ったスピードの速い方を、感情がまだ残っている方から見たときに、とても薄情な人間に思えてくる。これまでの2人の時間は、思いは、夢は、どこに行ったのか。まさか全部嘘だったのではないか。一度恋に落ちてその恋の夢から覚めた2人はこうして憎み憎まれ、もう元通りの関係に戻るというわけにはいかない。嗚呼、悲しい哉。でも仕方がないことにも思える。

ではどうしたらいいのだろう。今目の前にいるこの人と、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓うにはどうすればいいのか。感情というものが同じ状態で死ぬまで続くとは到底思えない。だからこの問いの答えは分からない。分からないが、思うことはある。何を思うかというと、あなたといると心地良いなと思う瞬間が集積して、気付けば5年、10年、20年経って、そのまま死ねたら嬉しいなと思う。

これがほんとうに難しいことは知っている。心地良いなと思うには「心理的距離」と「物理的距離」の2つが互いの間において絶妙なバランスで保たれなければならない。会いたいと思う時に、実際に会えるか。声を聴きたいという時に、5分でもいいから電話で声を聴けるか。そういう溢れ出す感情に相手が少しでも同じように応えて、報われたような気持ちになり、満たされるか。

これは明らかに難しい。お互い人間なので、心理的又は物理的に余裕が無い瞬間、互いの心理的距離や物理的距離のギャップによるすれ違いの瞬間、腐るほどあるだろう。

だからこそ「気付けば」という言葉が重要になってくる。呼吸をするように、この距離のバランスをメンテナンスしていかなければならないと思う。もちろん、この距離のバランスには個人差がある。感情の波が激しい人もいれば穏やかな人もいて、物理的に体が空いている人もいれば忙しくて相手に構っていられない人もいる。もしこの個人差が大きく開いている相手とこの先も長く一緒に居たいと思うなら、メンテナンスのコストは計り知れないと思う。(このメンテナンスをどれだけ苦痛なく行えるか、というのにも個人差があるでしょう。私はあまりできない。)だから、今のところの私の中での最適解は「距離のバランス感覚がマッチしている人を探す」ということになっている。

そしてこのマッチしている人が見つかるかどうか問題は、完全に運ゲーだと思う。だからマッチングアプリでも合コンでも何でもいいが、出会いの機会を最大化して、数撃って当てようとしている人たちは、実は意外と本質的な行動を取っているのかもしれない、とひとりごちた。これ以上、"元"恋人を増やさないために彼らは奔走しているのかもしれない…。