雑記 トゥ ザ フューチャー

odmishienの雑記です。あくまでも”トゥザフューチャー”を意識しています。

『台北暮色』に見た私たちの孤独、あるいは叙情詩

日曜日なので近所のミニシアターで映画を観た。『台北暮色』という2017年の台湾映画。スクリーンに映される台北の街並みや空気に圧倒されているうちに107分はあっという間に過ぎていった。

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車で生活する中年の男。人と混じり合えない少年。「ジョニーはそこにいますか?」という間違い電話を何度も受ける独り暮らしの女。そんな3人が孤独の中、出逢い、また、新しい未来が見えてきたとき、彼女の思いがけない過去が明らかになっていく ──。台北の<暮色>。物語のクライマックス、そこに、何を見るのか ──。

以下感想です。内容について書いてあるのでネタバレを危惧する人はそっ閉じしてください。

退屈な映画だ、と思った。これは褒め言葉である。退屈であればあるほど登場人物の感情の機微や仕草の意味に集中することができるし、ある種叙情的な映像作品はおしなべて退屈なシーンの連続だ。3人の登場人物たちの何ら特別なことも起こらない、諦めと惰性とが入り混じったような生活の風景が切り取られている。その風景もなんだか断片的で一人一人のこれまでの人生において何があったのか、どんな生活をしてきたのか、そんなバックグラウンドはぼんやりとしていてよく分からない。(例えば作中では台湾語(?)と英語が織り交ぜられて会話が進行するシーンが多くあり、混乱する。これは台湾だと普通のことなのだろうか。)

これは素晴らしい目隠しだと思った。作中に出てくる様々な舞台装置(買ったばかりなのに逃げ出してしまうインコ、何度もエンストする赤いスズキの車、やることを忘れないためのメモ、突然の雨など)は研ぎ澄まされ、鑑賞者の想像が入り込む余地を絶妙に残している。自分の人生で起きたイベントだって、簡単にこの映画のワンシーンに重ねることができる。そしてそれは主に「孤独」に関するイベントだ。

あくまで個人的見解だが、この作品に出てくる人物は皆どこか孤独だった。というか台北という街の持つ現代的で都市的な孤独の部分が巧みに切り取られていて、それに酔わされたという方が正しいかもしれない。いわゆる「エモい」カットが多すぎるのだ。

不倫相手と喧嘩したシューとたまたま居合わせたフォンが夜の高速道路を無言で走り出すシーンだったり。

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セブンイレブンの前で安酒片手に家族について告白し合うシューとフォンだったり。

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セブンイレブンのシーンではこんなニュアンスのセリフが飛び出す。

距離が近すぎると愛し方が分からなくなるから、離れてるくらいでいいんだよ。

ああ、そうだ…家族も恋人も友人もみんな他人だ。ましてや個人主義と自由と責任に満ちた現代の都市に生きる私たちにとって、信じられるのは己の存在だけだ。その存在すらも軽く、薄く、無個性で、誰かと代替可能で、それでも惰性で生きている。そんな風に思う夜がある。だが、そんな気分にもすぐ慣れて、ぽっかりと口を開けた孤独に呑み込まれていくことに鈍感になっていく。思ったよりも傷ついているが、まあいいかと思う。誰もがそんな作品にならない叙情詩を抱えて生きている。エモいとは孤独だ。孤独とは寄る辺のない切なさだ。自分の中にある詩をどうかこの『台北暮色』の中に探してみてはどうだろうか。

P.S.
エンディングテーマがなぜかNulbarichでなんかダサくてウケた。

*1:画像は全て公式サイトより転載